のりログ

好きなことを好きなように、出来得る限り好きなだけ

カズオ・イシグロ『わたしを離さないで』を読んだので感想

Amazonリンク)

上記リンクの文庫を、ようやく読みました。

予想以上のインパクトでした。

感想をつらつら書きます。あらすじを詳細に説明したりはしません。

 

当然ネタバレばればれなので、未読の方はご注意ください。

しかし長文になってしまった。思うことの多い小説だった。

 

 

共感しながら無視することの出来るわたしたち

計画的に発達させられ、必要に応じて消費される彼らは、つまるところ畜産物だなと。

 

いのちの食べかた」という映画を思い出しました。

※以下動画に屠畜のシーンがあります。ご注意。

www.youtube.com

これ観ながらハンバーガーとチキンナゲットを頬張れるか。

私は無理。

 

この映画を観たが為に、「しばらくステーキなんて食べられない…」となってしまった方もいるでしょう。

多くの人が、動物相手にも感情移入できるからです。

食事”させられ”、繁殖”させられ”、成長”させられ”、屠畜される動物たちを見て、

「可哀そうになぁ」と共感する気持ちを覚えるからです。

(※ちなみにこの映画自体は何かの思想を唱えるものではない。ナレーション等全くなし)

 

ではこの映画はベジタリアンを大量に養成したかというと、そんなことはない。

私もお肉ラブで今に至る。

 

可哀そうだ、痛ましい、と感じても。

利を優先して気持ちを極々無理なく切り替えることのできる、ある意味都合の良い生き物だなぁとつくづく思います。

そんなあやふやな思考できない!て方もいらっしゃるでしょうが、それはまた別の話。

 

『わたしを離さないで』において、

ヘールシャム運営に携わった校長と、志を共にし協同してきたというマダムの述懐で、

「提供者にも人間らしい生活を」と奮闘し、有力な賛同者も得ていたが、それも下火になって終わった。

という出来事が語られます。

 

すごいリアルな展開だな…。

クローン人間で生殖機能が恣意的に除かれているとはいえ、普通の人間そのもの(に見える)で育つ彼らを「人間ではない」と決めつけることはおそらく難しい。

一方で、延命治療という大義名分のもとにおいて彼らを利用することを選ぶ人々が存在することも想像に難くない。

 

制度的に出来上がってしまっているのなら尚更、

顔も見たことのない、人として社会的に認められてもいない”クローン人間”から臓器をもらうことに、

自分の、もしくは身内や大切な人の命を天秤にかけて躊躇する人間がどれくらいいるのか…。

 

自らが消費者の立場にいるとき、消費される側の視点を慮ることが出来ているだろうか?

そう問いかけられているような気持ちになりました。

 

キャシーの主観語りに膨らむ想像と解釈

小説は主人公キャシー・Hの主観語りで終始進み、

提供の具体的事実が明かされるのがかなり終盤になってからでした。

 

ヘールシャムに護られて過ごす子供時代はとても平穏に描かれ、

他の子どもたちとのやり取りや、先生とのやり取り、日々の生活が淡々と続きます。

それでも、平和とは言い切れない不穏さがそこかしこに見え隠れしていて…

この作品に似ているなーって最初は思いました。

 Amazonリンク) 

徐々に世界観が明らかにされる見せ方とか、

めっちゃ平穏っぽいのに全然ちゃうやん!って感じとか

好きな方は好きかもってだけで、方向性が全然違う話なんですけどね。

(アニメの1シーズンだけ見るに)マンガも読んでみたくてウズウズしてる。)

 

丁寧に描写されるヘールシャムでの平穏な思い出話と、

平穏無事に済まない未来とのコントラストが、ほんまに憐れみを誘う。

 

しかしポイントは、

物語そのものが「キャシーの主観語り」に終始しているところのような気がします。

 

例えばヘールシャムという養護施設を思い浮かべるに当たり、読者はキャシーの視点で語られる情報しか得られません。

つまり、

  • キャシーの見たヘールシャムでの暮らし
  • キャシーが自らのアイデンティティの拠り所としているヘールシャム像の話
  • 提供義務や仲間の喪失によるプレッシャー、ストレスを和らげるための気持ちの拠り所としてのヘールシャム思い出語り 

などなど、

語り部キャシーのバイアスがかかっていることを意識して読むと、読後の余韻がとても深くなります。

 

キャシーを唯一の語り部とするこの物語では、あらゆる部分が物語における「客観的事実」として信じ切ることができない。

全てキャシーの主観語りだから。

 

たいがい平穏無事に過ごしていたように描かれているヘールシャム時代にだって、提供者の間引きのような不穏過ぎる出来事があったかもしれない。

 

ルースとトミーの去り際は至極あっさりと描かれているが、本当はキャシーが自らの運命を恐れて、彼らの去り際の実態を曖昧にしか認識しなかったのかもしれない。

(もしかしたらデザイナーズベイビーである彼らには、認知機能の操作も施されていたのかもしれないし)

(いや、でもそんな高度っぽい技術があるなら、クローン人間を量産して臓器提供させるなんて高コストなことするより、もっと安上がりで手軽な臓器生産できそう?)

 

キャシーはHの1字のみ、彼らの名字の意味は

キャシー・Hをはじめ、ジェニー・B、グラハム・K、レジー・D、アーサー・H、アレキサンダー・J、ピーター・N、等々、これらは序盤に登場するヘールシャムの子どもたちのお名前です。

 

ファミリーネームに当たる部分が全てアルファベット1文字でのみ表現されていることに、何か意味があるような気がしてならなかった。

 

彼らの個体識別を考えるなら、名称は必須だけど、バラエティーに富んでいればOK!なわけがないのは普通に考えれば当たり前である。

先述した”畜産物”という観点で見るなら、普通、畜産物の個体それぞれにアイデンティティが匂う名前をつける必要はない。

 

そもそも不思議なのは、彼らが社会という野に放たれて生活を送っていること。

彼らを一般社会に解き放つことは、あまりにリスクが高いように思う。

 

  • 提供義務を課せられていない市井の人々を見て、彼らが自らの提供義務を遂行することに疑いをもち、なにかしらの抵抗をする可能性が生じるのではないか。
  • 市井の人々が、クローン人間と交流をもってしまい、それが”提供”そのものを阻害したりする事態を招く可能性があるのではないか。(クローン人間と市井の人が友人関係・恋愛関係を結んでしまう、など)

 

ただ、市井の人々に混じって生活する、被・消費者のクローン人間たち、というのが物語のミソなのかなとも思ったり。

 

古代ローマの市民と奴隷みたいに、同じ空間に全く違う身分制度に落とし込まれた人々が共存していること(当然この目で見たことないけど)もあるし、

ネットで色んな方が感想書いているのをチラちら見ていると、カカオ農園の児童労働を想起した、等書いてらっしゃる方もいて。

 

作者が書こうとしたのは信ぴょう性の持てる”クローン人間流通SF"ではなかったんだろうなぁ。たぶんに。

 

だからクローン人間である彼らは、

名字なのか記号なのか、どっちとも判然としないアルファベット一文字を冠されているのかなぁ。

それは社会に馴染みやすくするための飾りかもしれないし、

個体識別のための記号かもしれない。

 

まぁどちらにせよ、

個々に出自の家庭や先祖を自認していないと思われる彼らクローン人間に、

”わたしを離さないで”いてくれるであろう母もいない、デザイナーズベイビーであろう彼らに、

独自性豊かな名字=ファミリーネームが与えられていたのだとしたら、

それこそ滑稽で悲劇的である。

 

クローン人間たちに帰る場所はあるのか

圧巻のラストシーンだったなと思います。

キャシーの帰る場所は、ヘールシャムと、トミーとルースをはじめとする家族たちと、ここではないどこか、だったのかな、と。

 

彼らにとって家族とはヘールシャムで過ごした他の子供たちであり、

家とは、ヘールシャムである。

 

帰ることのできないヘールシャムと、

提供義務により離散させられ、義務の遂行により絶命し、徐々にその人数を減らす家族たち。

 

最後の場面で、キャリーが見ていたのは帰る場所だと思った。

父も母もない彼らが知る故郷は、ヘールシャムと、共に過ごした仲間たち、だったろう。

 

はぁ~。

やるせへんわぁぁぁ…。かなしい。

 

余談①海外映画版は小説の世界観再現に大成功している印象

公式の予告編を見ていると、小説を読みながら思い描いていた風景が蘇る感じ。

よく出来ている映画なのではという印象を受けました。


映画『わたしを離さないで』予告編

 

フィクションを映像化するというのは、客観的に見て鑑賞者が納得するようなものに仕上げなアカンやろうから、小説の表現よりもかなり断定的な解釈・表現を示さないと、

映像作品として成立しいひんのやろうけど。

センサーぴっぴっぴっ、のシーンとか、健康診断的なシーンとか見ると、

あぁなるほどーと思う反面、小説では判然としなかった余地が埋められてしまうのが、なんか寂しい気持ちになる。

 

個人的には、映画だけしか観てらっしゃらへん方には、是非原作を読んでみてほしいなと思う。

私はこの映画版、アマゾンプライムで無料で観られるなら観ると思う。(オイッ)

 

余談②チラ見したテレビドラマ版が別物に見え過ぎてビビった

日本でテレビドラマ化された版のことです。

 Amazonリンク)

アマゾンプライムで全話視聴可能。

なにが衝撃的やったって…

冒頭の数分しか見ていないのに色々ありすぎて、辛かった…。

 

衝撃その1「臓器摘出シーン」

のっけから披露されてましたね。

小説ではその実施が終始ほのめかし程度に終わっていたので、グロテスクでした。

 

映像ものなんやから、仕方ない部分もある一方で、

ドラマの演出においても、わざわざ手間をかけてグロテスクにしてインパクトを強くしていたんだろうなと思います。

(テレビドラマは視聴者の興味を引き付けないとアカンからでしょう多分)

 

レバー的なものとか、ちゃんと映ってたもんね…。

うぅぅぅぅ。あかん堪らん堪忍してぇぇぇ。グロッキーが過ぎる…。

 

衝撃その2「臓器摘出手術を脇で眺めるキャシー」

おそらく、原作小説のヒロインであるキャシーは、提供のための手術の場面に立ち会うことがなかったように描かれていると私は解釈してる。

 

やから「キャシー(綾瀬はるか)なに考えるんやろう…トミーの手術なんか脇で見させられたら…?」と思わず考え込んだ。

 

ていうかわざわざ見せるか?利点あるのか?まるでない。

家族か恋人かそれ以上かの人間が、臓器を提供させられている場面を静観できる心境ってどんなんやろう。

ほんで自らが同じ運命を辿ると決められているのに、キャシーが耐えられるか?

 

でも綾瀬はるかさんの表情はなんとも複雑に匂わすものがあって、さすがプロだなぁ…と思って観ました。

 

衝撃その3「安楽死っぽい処置からの、焼却ボタンぽちっ」

ほわぁぁぁぁ!?

全然、全然ちゃう!テレビドラマのオリジナル展開!!!

なんちゅう、お手軽な事後処理だ…!!

え、え、えー!!

 

ていうかそんなあっさり処理してしまうなら、延命のためであろう呼吸補助の機械とか着けてあげる必要あった?

手術の際に逝かせてしまっても良かったのでは?

 

ほんまに彼らをただレシピエントとして生を受けた物、として扱うなら

無駄に延命させるのは採算が合わないのではなかろうか。

 

それと、とても言い方が悪いのは承知で、

余すことなく有効活用したほうがいいんじゃないかな…

皮膚とか眼球とか毛髪とか、抜いてへん臓器もまだあるよね。

(フィクションの物語の中でのたとえ話です。悪しからず)

 

計画的・制度的にクローン人間を量産し、それぞれを成年まで育てるコストなんて想像つかへんけど、

でもトンデモナイお金と手間と時間がかかるやろうなぁということぐらいは思う。

 

原作小説では、特段に情操教育に力をいれていたとされるヘールシャムが描かれていますが、

全員に規則正しい生活をさせながら、初等~中等教育を施すというのは、

どう考えても大変な事業です。

 

そうやって育てあげられてきたレシピエント、提供者たちを、そんなお手軽に処理…

もったいなくて堪らん…。

 

衝撃その4「保科の表札」

IDカード的なやつに”保科”って表記してあるん見て、「あ、めっちゃ普通に名字」って思ってたけど。

 

ヒロインの綾瀬はるかさんが自宅アパートに戻った場面で”保科”って表札を見て、

「あ、もうアカンうちこのドラマ観れん」って確信して、停止ボタン押しました。

ぽちっ。

 

小説ファン的には、世界観の違いが強すぎて、そこいら辺りが限界でした。

 

いや、しゃあないで。

だって日本が舞台で、名字がアルファベット1文字とかありえへんし、

記号的な漢字が一文字っていうのもなかなか…漢字自体ふつう有意やもん。

やから漢字で構成されている姓が、全くもって記号にしか見えへんなんてこと、ないやん。

 

先述してますが、クローン人間である彼らに独自性豊かな姓名が与えられているのは滑稽で悲劇的、と自分は思ったので、

イギリスが舞台の原作版で、アルファベット1文字とされていることと比較すると、

どうも漢字の姓は含意が多いように見えて、

違和感に耐え切れませんでした。

 

アパートに住んでいるのを、映像化して明示されたのも大きかった。

あ、ふつうに市井にお住まい…

もしかしたら、あなたの隣に臓器提供のために生産されたクローン人間…

っていう別種のSFが始まった感を覚えてしまった。

 

余談③森博嗣さんの「Wシリーズ」をオススメしたい

人間が人間を、もしくはそれに類する者を、またはそれと同等といえる者を製造することができるようになったら、どうなるのか。

そんなことを考えさせられるSF小説シリーズです。

1冊1冊はすごく薄くて読み易いのに、テーマがおっもい、ふっかい。(重い深い)

以下、出版社の紹介ページの下段に記載あります。

taiga.kodansha.co.jp

『わたしを離さないで』とは全然ベクトルの違う方向に走っているフィクションですが、

我らの命ってナンジャラホイ、を考えるのに楽しいフィクションかな、と思います。

『わたしを離さないで』はかなり重苦しい、哀しみ成分強めなんでね…。

 

最後に

 

未だに余韻が消えない。

これってあぁだったのかな、こうだったのかな、もしかしてそうやったんちゃうかな、

そんな思案アレコレが途切れない。

 

印象深い小説の余韻って、ほんまにずっと残るよねーって再確認しました。

文章作品を読んで得る(与えられる?)心象世界へのえぐり込み方ってやはりすごいね。

 

良い読書ができて大満足でした。

 

以上です。