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大門剛明『雪冤』を読んだので感想

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せつえん、と読む。

人様からいただき、面白く読ませていただきました。

粗筋を詳細に説明したりはしませんが、

ゴリゴリにネタバレぶっかましてゆきますので、未読の方は御注意ください。

ほなゆきます。

 

 

被害者遺族と加害者家族の視点から進む物語

最終的に被害者遺族と加害者家族が歩み寄り、真実を追求して共闘する…

なんてホンマにファンタジーなんやけど、いいじゃん小説だもん、ね。

 

特色は、死刑制度の存在が物語に大きく絡んでくるところ。

人を裁くとは、贖罪とは、極刑を加害者に求める心とは…、

一筋縄ではいかない重いテーマが目白押しです。

ただ一喜一憂して楽しむだけの小説ではありません。

 

法律用語もたくさん出てくるなかで、それでもエンタメ小説になっているのはすごい。

ミステリー要素がかなり強いことと、『走れメロス』の寓話に基づいた壮大な仕込みが物語に施されているところが、とても小説的だなと思った。

 

私は『走れメロス』を国語の教科書以外で読んだことがなく、

話の大体の全容しか知らないのですが、それでも『雪冤』は難なく読めました。

全然『走れメロス』知らんねん言う方には読みにくい部分もあるかもしれません。

(しかし太宰作の『走れメロス』ちゃんと読んでおけば良かったな。またの機会に読もう。)

 

演劇の舞台において『走れメロス』が演じられる場面が序盤と終盤にありますが、

それが為にまるで、この『雪冤』の物語それ自体が『走れメロス』の舞台の幕間に行われている群像劇のようでした。

もともとのタイトルが『雪冤』ではなく『ディオニス死すべし!』だったのもうなずける。

 

Father,罪は償えるのか否か

払える代償如何でその可否が決まると思う。

最終的には被害者が加害側を許せるかどうか、というのも問題になるかとは思う。

被害者と加害者の間で関係修復ができればそれに越したことはないが、

そんなこと簡単に出来ないから裁判沙汰やらになってしまっているわけで。

 

『雪冤』においては、死でもって罪を償おうとした若者とその家族が描かれますが、

私は自分の命でもって償おうなんていうのは本人の傲慢の成せる業だと思います。

 

特に『雪冤』において、命を賭した八木沼くんは、誰かに求められてというよりは、自発的に自らの身命を捧げたように描かれています。

むしろ彼がその行動を決断したことによって、実際に彼が命を賭したことによって、

息子の冤罪を訴えるために人生をかけた実父、哀しみの淵に追いやられ長く苦しんだ被害者遺族、八木沼の犠牲に心を痛めたメロス、八木沼くんを救えず自暴自棄になる弁護士…、とさまざまな人が振り回されます。(それがドラマになる)

 

己が正義を貫こうとした八木沼くん、そういう思考はダメだと思うよ!と言いたい。

傲慢だよ!と。

結局あなたが最優先にしているのはあなたの信条・価値観よ!と。

 

しかし最期のときに、父への想いを叫んだというエピソードが胸を打ったよね…。

作者さん、巧みよ…。

 

八木沼くんは御父上を、正義の弁護士だと思っていたんだろうなぁ。

自分も正義の人でありたかったんだろうなぁ…

と思うと…

かわいそうになぁ…と憐憫の情が湧く。

 

みんなの問題、自分の問題、社会の問題

出来ればお関わり合いになりたくないけど、紛争・災害は誰の身にも起こり得る。

身内や知人や自分を襲うかもしれないし、襲わないかもしれない。

他人事ではないけど、本腰入れて考えたことはない。

日々をとつとつと過ごしているだけでは考えずに済ませてしまう類の話題です。

 

みんなの問題、というのは本当に難しい。

いわゆる社会問題と、いわれるやつのこと。

死刑制度の是非、環境問題、少子高齢化社会の問題…、挙げ出すとキリなし。

 

小説はじめ、フィクション作品の良いところのひとつは、

「非日常を疑似体験することで我が事ではない問題やテーマを考える機会が得られる」

ことですね。

 

自分がもし

被害者遺族になってしまったら?

加害者家族になってしまったら?

被害者になってしまったら?

加害者になってしまったら?

冤罪で懲役になってしまったら?

償いようのない罪を犯してしまったら?

 

『雪冤』に登場する人々が懊悩する様は、色々なことを想像させてくれました。

 

なんでも我がことのように考え続けるのは常人には不可能なんですけど、考える機会があるのなら、大事にしたい。

 

Soon ah will be done, but by whom?

八木沼くんが世間に問いかけた言葉が印象的です。

「私を殺すのは誰か」

それは世間の貴方たちだと八木沼くんは言います。

 

えっ何それーって、最初に読んだときは思いました。

まだ八木沼くんに謎の多い、小説序盤での出来事でした。

 

けど読み進めるうちに、八木沼くんの問いかけが深々としてくるんですね。

この制度自体は必要悪なのかな、と私はこれまで捉えていましたが、なんだかよく分からなくなりました。

 

たとえば、 加害者が極刑に処せられても、被害は無かったことにはならない。

侵されたものは、取り戻せないことがとっても多いだろうと思う。

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この韓国映画を思い出しました。

美し過ぎるイ・ヨンエさんとハードな展開が見ものの映画です。

私はこの映画で「ケンチャナヨー」を覚えました。

 

人を裁くというのは、本当に難しい。

「罪を憎んで人を憎まず」とは、英知を含んだ言葉なんだな、と。

憎んでも憎んでも、憎んだ本人が身を滅ぼしてしまう。

憎んだ相手に、憎しみが通じたって気持ちが晴れるわけでもない。

憎んだ相手が害されたからって、痛みのもとが取り除かれるわけではない。

 

本当に憎いのは罪状そのもの、加害行為・結果そのもの。

侵されたものに対する、惜しさ。

 

”腐ったパン”の例え話をしていたのは、元を辿るとやっさんだった、というのは考えさせられる話です。

自分の家族に害をなした子どもたちを憎む気持ちはあっただろうに、

憎しみを昇華させて救いを得ようとしてはならないと、そう思ったんかな。

 

でもこれだけは言いたい。

八木沼くんは自分で自分を殺したんだと思う。

 

スンダビで『雪冤』が響いてくる

スンダビこと、”Soon Ah Will Be Done”という曲です。

『雪冤』の物語を味わうなら、これがどんな曲か聴いておくべき。 

www.youtube.com

そらこれが、出町柳のへんで鳴り響いてたら「ナニゴト!?」ってなるわ。

 

物語の色んな場面を咀嚼しながらこの曲を聴いていると、小説の世界観とか、登場人物の視点とか、曲そのものの世界観とか、色んな事柄が心身にジーンと沁みてくる。

 

気持ちを切なくさせる、琴線に響く良い曲ですね。

合唱曲として人気なのも分かる。

 

なんか『雪冤』読んだけどまだしっくり来んわーという方は、是非一度スンダビを御一聴されることをオススメします。

 

京都市街の表現に違和感があった件

ちょっとだけあった。地元やから余計に気になってしもた。

 

事件現場の油小路へ急行!の場面

賀茂川から徒歩で行くんめっちゃ遠くない?

行けんことはないけど、そこまで騒ぎが轟いてくるって、なんか違和感ある。

しかも夜間に。花火大会とかなら聞こえたかも。

 

河原町を越えて、

南は御所、北は同志社の広大な敷地に挟まれている通りを抜けて

烏丸を越えて、

堀川より1本東の油小路まで、

Google Mapsさんによると、総距離およそ1.7km、徒歩22分、車で6分。

結構遠いな…。

 

いち地元民的には、通常なら絶対わざわざ歩いてゆく通りではない。

バスもばんばか車もばんばか走っている通りなので、代用できる足はいっぱいある。

 

走って行ったのは貧乏学生の石和くんとホームレスのやっさんじゃん!ってツッコミ入りそうですが(笑)

とにかく遠いと思いました。

 

北野天満宮から北野白梅町を見やる場面

ヒロインの女の子が自転車出勤する場面で、西陣署の脇を通り過ぎる際にそういう描写があったと思います。

 

見えんと思う。

北野天満宮北野白梅町の間で、今出川通りはグキィっと折れ曲がっているので、

そんなに見通し良くない。

まぁ、見ようと思えば、立ち止まってジィィっと臨めば、見えるかもしれない。

 

でも、あんなとこで脇見運転しちゃだめ。

お年寄りいっぱい歩いているから。

小説とは分かっていても、「おい運転に集中シロっ」と反射的に思った(笑)

 

北野天満宮北野白梅町西陣署、の立地関係を読者に示すための描写だったのかもしれないけど、

地元民であるヒロインが、

わざわざ西陣署の辺りから北野白梅町を見やったりするかなぁ…?って違和感がめちゃめちゃあった。

 

最後に

『雪冤』を読んで思い出したこと、その1。

20歳の誕生日を迎えてすぐに、裁判員の候補になった経験があります。

 

もちろん自発的に応募して選定されたわけではなく、有権者から無作為に選ばれた中に入っていたというだけの話。

 

それでもある日、唐突に最高裁判所から自分宛に郵便が来たときはビビりました。

同封の「裁判員制度とは?」てな具合のしおりを一応隅々まで読んで、

「ほんまに出廷しなアカンくなったらどうしよう…」と思っておりました。

実際に出廷を要請されることは一度もなく、対象期間は終わったのでした。

(何段階もある抽選ののち、出廷する裁判員が本選定されるという仕組み)

 

ほんまに選ばれんで良かったと思います。自分には人を裁くなんてあまりに重荷です。

 

『雪冤』を読んで思い出したこと、その2。

そういえば昔はホームレスがようけ住んだはったなぁと、昔の賀茂川の風景を思い出しました。

京都駅の地下街にもいはることがよくあって、昔の京都市内の風景を思い返す場面がいくつもありました。

小説には描かれていませんが、四条河原町界隈もピンクなお店の看板がいっぱいやったし、大人の男性向けのお店の客引きが道端で普通に営業したりしていました。

 

この小説を読んで京都に初めて来た人とかは、全然ホームレスいいひんやんって思うかもしれんけど、昔はようけいはったのです。

賀茂川も、青いビニールシートで出来た家がいっぱいありました。

今はそんなことなかったかのように、綺麗になっていますけどね。

 

地元が舞台の小説やと、地理表現に「ん?」と引っかかってしまうこともあったりするけど、「あぁそうそう、そうやったなぁ」と頷くところもあったりして、

知ってるんやけど、知らない地元、を巡っているような心持で読めました。

 

とても読み応えのある小説でした。

 

以上です。